油田遺跡の謎ー3
油田遺跡は仁賢天皇の御陵墓
油田遺跡は仁賢天皇の御陵墓であるといわれています。その本が「真清探當證」です。
これとよく似た書がありますが、享保8年に書かれた真清田神社の神主真清田清円著「真清探桃集」です。
”ロマンに彩られた 古代の秘史のなぞ
「真清探当証 復刻版」
平成11年10月に” が田中豊氏により自費出版されいます。
この本のはじめに「昭和の始めに、当地一宮の土川と名乗る老紳士が、全81章に及ぶ膨大な文章
「真清探当証」を持参し根尾村を訪れました。記述の中に第26代継体天皇御歌 身の代と 遣す桜は
薄住よ 千代に其の名を栄盛へ止むる とあり根尾村のうすずみ桜が世に知られることとなりました」
この「真清探當證」に油田遺跡がでてきます。読んでみましょう。田中豊先生は言われていますが
記述の歴史的真否は別にして、古代のロマンに彩られた古きよき時代の故郷を、新たな視点から見つめて
めてみたいと・・。
「真清探當證」は紀元1104年(西暦444年)安康天皇(20代)の崩御からはじまる。
17代天皇の孫になる億計王(24代仁賢天皇)と弟の弘計王(23代顕宗天皇)が追手から逃れ
木曾川の黒田へ籠の中で野宿されるそれが(籠勝手神社)の起源になります。
そして尾張真黒田太神宮(真清田神社)に来られます。
弘計王(23代顕宗天皇)は結婚し生まれた子供が男大跡王(26代継体天皇)で根尾村で暮らします。
億計王と弘計王は千間殿に移還する。億計王(24代仁賢天皇)は真清田神社の神主の娘めと結婚。
男大跡王に上京の要請あり、根尾村を去る際に桜樹(薄墨桜)を植えられる。
488年 億計王が24代仁賢天皇となり。翌年尾張真黒田太神宮へ参拝、その時、真清田神社と改称。
498年24代仁賢天皇崩御、青桃ヶ丘御陵(油田遺跡)に遺言で埋葬される。
※ 男大跡王(26代継体天皇)が歩かれたであろう道 真清田神社から薄墨桜まで60キロの
ウオーク大会があります。早春薄墨浪漫ウオークです、本巣市・一宮市・真清田神社等の協賛で毎年開催されており、
H26年度は3月15日(土)~3月16日(日)で開催。本巣会場・一宮会場で5キロから60キロまでいろいろな
コースがあり楽しめます。
一宮会場の5キロコースで籠勝手神社を初めて訪れ、その歴史を知りました。本巣会場の13キロ・18キロと
歩きその道中少し「いにしえのみち」にふれました。
桜シーズン道の駅織部の里に車を止めすぐ裏の、垂水鉄道「織部駅」から終点の「垂水駅」までの沿線の
桜の素晴らしさ一度体験されませんか・・。
※ 道の駅織部の里の手打ちそばは安くて美味しいですよ。うすずみ温泉の露天風呂お勧めです。
「真清探當證」は政敵から逃れるサスペンスがあり3組の天皇の結婚ロマンスがあり大河ドラマの脚本に
最高ではないでしょか。
下巻 第三章 神御殿へ移還
千間殿 真黒田大神境内(真清田神社)を離れ、千間目たる為、千間殿と名称、
妙興寺 此の殿を控えてたる地を住来田と名称。其の後住来田を杉田に作り、現在は妙興寺と改称。
森本 尚千間殿東北を守基を名称、これも現在は森本に改字を用ゆ。
多加木 千間殿の東南を尊来と名称、之も後に多加木に改字。尚此の地献納物に栗を持参したる
有り。最初の奉献者に著名の栗と答礼書に記載の為、名栗と名称
下巻 第二十七章 真黒田大神と改称披露に御旅所新設
森本
故に一族の家臣各々其の方向に住宅を構成せり。籠侍 六名は守護を厳になす目的にて、主人与謝郡より貢ぎを受ける
約定、再度此の地に来るにより、市川大臣下命なし、当分此の地と指定場所、掘立小屋を作製さし農業を営む。
故に此の地を守基と名称、中頃守基を森本に改定なしたり。
下巻 第三十章 仁賢天皇
青桃ヶ丘御陵
仁賢天皇紀元1158年戊虎八月御逝去、ご遺言に基づき現在尾張中島郡大和村大字妙興寺字
同九月朔日御埋棺 青桃ヶ丘御陵墓の名称、今尚在せり。
油田
青桃ヶ丘御陵墓地、朝の御灯明は皇后春日姫の御献灯、晩の御灯明は必ず振媛御献灯にて、昼夜
灯明の消える間もなく、常夜灯に等しき為、御陵を油田と名称せり。
※油田遺跡は仁賢天皇の 青桃ヶ丘御陵墓であると言われています。歴史的真否は別にしていろいろな
説があります。
(仁賢天皇の御陵墓は大阪府藤井寺市にもあります)