油田遺跡の謎ー1
真清田大神の降臨地説
一宮市多加木2-17(旧地名 一宮市大和町妙興寺油田13)
2014年(平成26年)の油田遺跡 | 油田塚の写真 昭和10年頃 |
油田遺跡には真清田大神降臨伝承地の石碑(昭和58年建立)があります。この地に、その昔真清田大神が降臨されたと言い伝えがある為ですが、真清田神社さんは神社東の松降りが降臨地との見解です。真清田神社さんが違うと言われているのに、なぜこの石碑は建立されたのでしょうか、またその根拠は何処にあるのでしょうか?
はだか祭のHPを作成するなか丹陽の神社紹介を調べる過程で「油田遺跡」を知りましたが調べるうちに私は違和感を感じました。少なくとも古代から大正時代そして、昭和時代までは油田遺跡が降臨地と認知されていません。昭和10年頃の写真を見ても何かの塚としか見えません。
では油田遺跡はなんでしょうか?
(真清田神社は最初は眞墨田神社との名称でした)
また仁賢天皇(24代)が埋棺されているとのお話もありますがこれは後程にして、まずは降臨地について調べてみました。私は特別に歴男ではありませんし、恥ずかしながら、つい最近まで「油田遺跡」のことは、地元に居ながら知りませんでした。地元の有志の方が周りの掃除をされていて、秋になると、落ち葉がすごく、一日で4袋(45ℓ×4)の落ち葉があり、大変ですとお聞きしました、本当にご苦労様です。
一宮博物館さんの、学芸員さんによりますと、現地は発掘はされておらす、正確なことは分からないとのことでした。
現地を見たり、ネットで検索したり調べましたが、諸説いろいろでよく分かりません。
一宮市図書館で古い文献を探し、出会ったのが大正12年に発行された、飯田吉之助著の
「一宮市史」です。本は旧字体でして、素人の私ではよく分かりませんが、とりあえず読んでみますので、間違いが多いかもしれませんが、お許し下さい。
「一宮市史」
飯田吉之助著・大正12年12月15日発行 1923年
※「真清探桃集」8巻 享保18年(1733年)佐分清円著
(佐分清円は真清田神社の神主さん1680~1765)
※「一宮伝記」天明5年(1785年)佐分登清著
(佐分登清は真清田神社の神官一乃權)
この古書をもとに「一宮市史」がまとめられた。
第一編 古代 第一章 大宮(其一) 第一節 神宮の尊號
東海濱道尾張ノ國中島郡松雨埜(まつふりの)莊一ノ宮ノ郷に鎮座し玉ふ・・・
※ 真清田神社さんは油田は降臨地ではないとの見解で、神社東側の松降りに降臨されたとの
お立場です。その根拠の一つが上文 松雨(まつふり)のくだりです、松雨は現在の松降りに
なるからです。
第一編 古代 第一章 大宮(其一) 第二節 鎮座
青桃乃丘山(風土記に由るには古へは邑間乃丘林総て山と號する乎、村里之間山を呼ぶ者多し。古老の云四至外田阡陌の内所々桃樹があって天和の頃まで春花を發した。
船山の辺り特に多かったと云ふが享保年代には悉なくし。
※天和の頃・・・1681~1684年 徳川綱吉
※享保年代・・・1761~1736年 徳川吉宗
青桃乃丘山・・・村の間の丘林総てを山と云う。四至(境界)の外田阡陌(千里)の内
所々桃樹があり、特に船山の辺り多かったが50年間で総て無くなった。
では「青桃乃丘山」・「船山」・は何処の場所にあるのでしょうか・・
桃・(wikipedia)・・中国原産 平安時代鎌倉時代の桃は甘くなく薬用・祭祀用途に用い
ていた。
第一編 古代 第4章 大宮(其四) 第五節 神產の舊地・舊跡
神產の名ある舊地。
△御供田 高六石四斗△油田 高四石二斗 △車田 高十六石7斗一升
此三個所は徍古の神田で天正年中にも之を廢せざるものである。
※天正・・1573~1592年 足利義昭
神產とは神社の財産と理解し、舊地は旧地で。昔からの神田が油田にあったがそれを廃した。
1石 | 10斗 | 100升 | 150キロ |
1斗 | 10升 | 15キロ |
四石二斗は金額に直すといくらになるでしょうか?630キロですから10キロ4000円で
252000円になります。
一宮神產等の舊跡ある邑里
△油田△佛田△茶薗田△桃木島△八劍△八體。
此の六個の地は妙興寺、宮地兩村にあり。
(享保年代の調査に係るもの)
※享保・・1716~1736年 徳川吉宗
油田と桃木島が別々の地名になっていますが、桃木島が妙興寺なのか宮地雨村なのか分かりません
初めて「桃木島」がでできました、「桃木島」は地名かな、小字地図書かれているか確認してみましょう。
いずれにしても降臨地の「青桃乃丘山」とは一緒ではないこが分かります。
第一編 古代 第6章 祭式 第一節 桃 花 祭
祭禮車
或人曰く、桃樹は尊神の寓木である。故に祭時を桃花の節時に宛つ。
(妙興寺村に桃木島の舊跡がある。且今日の飾馬群邑に魁たる者亦
由意あるべし。)
※桃の樹は祭祀用の大切な樹であり、桃が咲く時節の3月3日にお祭りとなったと。
桃木島は妙興寺村の古跡である由、お祭りの先頭になる資格があると言っています。
第一編 古代 第八章 名勝舊跡 第一節 松雨埜荘
松雨埜(まつふりの)莊神記に云ふ、鎮座の初め六葉の若松三本を降ろす。
東鑑に眞清田ノ庄と曰ふ
※名所古跡の一番に松雨の荘が紹介されています。鎮座を大切にする作者の気持ちがよく分かります。
松雨は現在の松降りですね。六葉の若松3本は場所特定のキーワードです。
第一編 古代 第八章 名勝舊跡 第二節 六葉ノ松 (北更屋敷ノ地)
大宮の東百五十間外、神部小之祝が邸舎の前にあり。
大宮の東150間外(約272m)、神部邸の前にあり。
〖備考〗大正時代の住所は一宮市松降區字西之町 伴能春蔵氏所有地内になります。
※降臨地は神社の東272mとわかります。
休憩です。
第三節に古制札が記載されています。それ見ていて、少し笑いました。六所神社には氏子がいて、交代で約20数名の方が、年行司(ねんぎうじ)になり一年間神社の行事やお掃除(月2回)に励みます。神社総代は別に4名います。掃除は15日と晦日掃除(月末)2回ですが、いやで・いやで、たまには雨で中止にと・・罰当たりですね。
昔の掲示板をみてニッコリです、お宮掃除は月3回とか落葉や樹木のかたずけ等等 昔もたいへんでしたね。
室町時代 足利義植将軍 1516年 | 初代尾張藩主徳川義直 1631年 |
第一編 古代 第八章 名勝舊跡 第五節 御神幸の舊跡
濱ノ神明社の北百敷十間外に御舟山と號するもの左右に竝で四個
※濱ノ神明社(東ノ神明社)の北から約18mに御船山が四個あったと。
第一編 古代 第五章 大宮(其五) 第四節 東ノ神明社(濱ノ神明社とも號す)
大宮の東方二八〇餘間、神明江渡ノ地にあり。享保の頃神地の東に水田があって南北に長し。
東門の流れ是下津に達する。俚俗に東川田と云ふ。往古は海潮玆に滿來る、濱ノ神明社とも號す。
※大宮から約380mの地に東ノ神明社があった、浜ノ神明社と東ノ神明社は同じであると言っている。享保の頃(徳川吉宗1716~1736年) 神社の東に水田があったとも。東門の流れは下津に達していたと。その昔は潮の満ち引きがあったから、浜ノ神明社とも云ふと。
第一編 古代 第八章 名勝舊跡 第6節 御船山
寛永年中此船山の中間に竇を設けて水道を發く。小塚あり、上に松杉二株を生ず。
石を以て築いて船ノ形を爲。尤も高からずして上に桃樹あり。享保の頃には農夫の爲めに削剥されて
僅かに松の一本を遣せる而已。
備考 今(大正12年)の一宮市第二尋常高等小学校庭に内西方の所になる。
※寛永(1624年~1645年 将軍徳川家光)に水道をひく。石で船の形と作るが
享保(1761年~1736年 徳川吉宗)の頃には壊されて僅かに松一本がのこる。
以上の資料から当時の地図を描きました。降臨地の「青桃之丘山」は真清田神社さんが、言われている神社東の松降りであると思いました。
※1間は1.818mにしましたが、豊臣秀吉時代は6尺3寸で1.91mでした。
第一編 古代 第八章 名勝舊跡 第八節名區牛野竝萱津ヶ原
「己が毛の黒田も近くなりにけり 輪くる牛野につづく葦原」永享壬子ノ秋九月の和歌
※享保4年(1432年 室町幕府 足利義教)
油田の辺りは下津から赤池そして牛野までは、アシ原が多かった。和歌にも「牛野のつづく
葦原」と詠まれている。多加木村は僅かに区別するとも(松林があつた)。古からの名所である。
※ 引用文献・参考文献リスト
本 作者 発行日
一宮市史 飯田吉之助 大正12年11月23日
大正13年12月20日
一宮市史 一宮市役所 昭和14年4月3日
一宮郷土読本 一宮市教育委員会事務局 昭和32年7月10日
一宮の歴史 一宮の歴史研究グループ 昭和51年12月15日
多加木乃今昔あれこれ 野村 精 昭和55年12月25日
真清探当証 復刻版 田中 豊 平成11年10月
丹陽町史誌 丹陽町史誌編集委員会 平成12年11月23日