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多加木

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  多加木の地図

 

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多加木村の絵図 天保12年7月(1841年)           多加木航空写真 (2014年)

  多加木(takaki)の地名について

その昔木曽川多くの支流に分かれ多加木あたりも、二つの支流の間にできた大きい三角州であった。

多加木の地名は「真清探当証」の記する仁賢天皇(498年)時代は尊来(そんらい)と言われた。

いつ頃からか、部落の周りに高い木が多かったので、高木と呼ばれる。

慶長(1596~)頃も高木とされていたが、上の絵図、時代、天保12年(1841年)には多加木村と

記されている。

   多加木(takaki)の村名の変遷

明治5年(1872年)大区編成で丹羽郡(にわこおり)と葉栗郡が第四大区となり、第九小区に多加木・森本

あずら・猿海道・馬見塚・浅野羽根・浮野・浅野・南小淵・北小渕・大赤見・小赤見・柚木颪が含まれた。

明治17年(1884年)8月に郡区町村制で丹羽郡(にわこおり)23組に多加木・森本・あずら・猿海道・馬見塚

となり、戸町役場は猿海道に置かれた。

明治22年(1889年)町村合併で多加木村・森本村・あずら村・猿海道村・馬見塚村は「多加森村」になる。

明治39年(1906年)多加森村(馬見塚を除く)と九日市場・二川村・三重島村・が合併し丹陽村が誕生した。

昭和38年に一宮市に合併する。

   往古の道路

鎌倉街道(江戸時代に名称と)(小栗街道)は近江より美濃路に入り黒田宿・牛野宿から妙興寺へ、多加木村往生寺横を通り、上赤池へと、そして下津宿への街道でした。

永享壬子(室町時代1432年)秋の和歌があります。

「己が毛の黒田に近くなりにけり輪くる牛野につづく葦原」下津宿から牛野宿への道中で詠まれた和歌です。

アシがしげっていたことが分かります、多加木村になると、松林など高い木と書かれています。

正保(将軍 徳川家光1644年~)の初めに岐阜街道となる。

 

  多加木の人口と世帯数

時代 人口世帯数
寛政4年(1792年)353人98世帯
昭和10年(1998年)508人103世帯
平成29年(2017年)4829人2016世帯

 

  明治の多加木村の地図

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 明治の多加木村(明治24年1891年)

  丹陽の小字図

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 丹陽の小字図

 

寛文村々覚書

(1670年頃寛文10年頃 徳川家綱)

尾張藩が作成した 各村の世帯数・人口・概高・田畑の面積など

村名戸数概高田畑の面積
多加木村村4515710426122342石4斗2升7合29町9反
森本村75198179377181004石6斗4升2合60町3反
あずら村3010990199232石1斗4升7合21町5反
平島村411199621512156石1斗1升11町3反
猿海道村35958117611394石2斗21町7反

 

「多加木の今昔あれこれ」

 

「多加木の今昔あれこれ」の著者 野村 精さんは明治40年10月21日多加木の生れ

昭和57年10月25日没。

「丹陽地方の方言」「百姓ー土と友に70年ー」著書があります。

 

 

 

 ※引用文献・参考文献リスト

作者発行日
一宮市史飯田吉之助大正12年11月23日
大正13年12月20日
一宮市史一宮市役所昭和14年4月3日
一宮郷土読本一宮市教育委員会事務局昭和32年7月10日
一宮の歴史一宮の歴史研究グループ昭和51年12月15日
多加木乃今昔あれこれ野村 精昭和55年12月25日
真清探当証 復刻版田中 豊平成11年10月
丹陽町史誌丹陽町史誌編集委員会平成12年11月23日

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